人のためより、自分のため。
こんばんは。心理カウンセラーのキタダハルキです。
最近、改めて「自己犠牲」ってロクなことがあらへんなぁと思いましてね…。私は、カウンセリングの中で…クライアントさんの状態に応じて伝え方はいろいろですが、一貫して「自己犠牲は止めましょう」って話を必ずと言っていいほど、します。
どう「ロクなことがない」かというと…どうしても「報われありき」の気持ちが出来上がってしまって、思った通りに現実が動かなかったときに落ち込んだり、苛立ったり、悲しくなってしまう=総じて不安定な状態を作ってしまいがちだから。犠牲になったんだから、これぐらいはいいよね?みたいなマインドがのぞいてしまうわけですね。
ただ、ここまでは意外と理解している人も多いというか…。頭では、わかるんだけど…実際に「自己犠牲」を止められないって方はわんさかいるんですよね。では、この「自己犠牲」がなぜやめられないのか、そんで、どうしたら止められるのか…今日はそのお話をしていきます。
目次
■自己犠牲は「いいこと」だと思わされている。
自己犠牲がやめられない仕組みって、ごくごく単純。心の根っこでいいことだと思っているから、やめられないんですよ。
例えば、学校生活やらなんやら、どこかのタイミングで「教えられる」んですよね。自分自身より、人のため、みたいなことをね。しかも、これを「正解」として学び取り「続けてしまう」から、どうしても自分を犠牲にしないことに対して「抵抗感」が強めに出てしまいがちになるんですよね。
■「他人のため」より「自分のため」。
では、こういう「抵抗感」をどう乗り越えるのか、というと…
キーワードは「自分のために」ってことだと私は思います。例えば私の場合は、ひたすら「やりたい」と思っていることをやりました。抑うつ症で仕事を休んでいながら野球の観戦に行ったり、旅行に行ったり、バンド活動をしたり…とそれまでのこと(我慢に我慢を重ねて仕事していたこと)を思えば本当にやりたい放題。
で、迷惑がかかったか、というと、正直、そんなことはなくて。むしろ、自分自身の体調が上向いていって、自分で勉強する気になって、自立への道を歩み出したわけですから、心配も「病気のまま」に比べたらかけずに済んだと思うんですよ。
■自己犠牲なんて望んでいない、って本音に素直に。
もし私が自分を犠牲にしたまま、だったとしたら…
おそらく、うつが「持病化」して、我慢に我慢を重ねて、自分の感覚がドンドンなくなっていったのかもなぁ…と思います。ただ、自己犠牲ということを是としていたら、自分の感覚よりも他への感覚が優先されますから、あくまでその「自己犠牲という望み」が実現しているにすぎない、ってことやんなぁ、と思います。
そういう意味で、「自己犠牲なんて望んでいない…。私は自分が生きたいように生きたい!」っていう本音に応えてよかったな、と思うんですよね。
★生きたいように生きる、ってのはこういうところから始まると思います。