「やり過ぎ」「頑張り過ぎ」と言われて、傷ついたことがあるあなたへ。
こんばんは。心理カウンセラーのキタダハルキです。
私、今振り返ると、率直に言って「頑張ること」が大の苦手、っていう感じでずっと人生やってきてましてね。なんというか、真面目にやってるつもりなんだけど、頑張り切れないというか。受験然り、趣味然り、いつも「ちょい手抜きっぽい感じ」になっていたんですよね。そんで、これがコンプレックスでもありました。
なんで、自分は頑張れないんだろう、頑張れば成果を出せるはずなのに…。
こんなことを常に思っていました。
だから、それこそサプライズやらなんやらと、特別な場を演出できる人がすごいなぁ、と思いつつ、正直苦手だったんですよ。どうせ私はそんなんできませんよ、といじけていた部分もあったかと思います。(後述しますが、サプライズがらみでイヤな思いもした)
ただ、今はどう考えてるかと言うと…「なーんや、別にサプライズ的なことって要らんねや!」っていう感じです。この考え方になってからものすごく気分がラクになって、頑張り過ぎずに、成果も安定するようになったんですよね。今日はそのお話しをしていきたいと思います。
目次
■少し相手をイメージするだけで十分だった。
私が「サプライズめいたものって要らんのや!」って納得できたのは、当時お付き合いしていた方のひとこと、だったんです。
たしか、そのときは誕生日かなんかで、プレゼントを探して○フトを駆けずり回っていて、でもなんかしっくりくるものが見つからなくて、そういえばこんなん好きって言ってたな…みたいなものに落ち着いたんです。
こんな感じやから、ドキドキでしたよね。喜んでもらえるんかなぁ…みたいにね。
そしたら、「わぁ!!!ありがとう!!!よくそんな話覚えてたね。一生懸命探してくれたんやね」ってなことを言ってもらえたんですよ。これでだいぶ力抜けたんですよね。特別なことやなくて、少し相手のことをイメージするだけで十分なんやなとね。
■てめぇが喜ばれたいだけのサプライズ…
ほんで、この出来事の前に、私はサプライズでイヤな思いもしていてね。
本人に隠してお店で盛大に祝おう、みたいな流れがあって、その際の電話連絡かなんかを任されたんです。ですが、その際に私が道に迷ってしまってテンパって、うっかりサプライズのタネをばらしてしまったんですよ。
これに仕掛けた張本人が大激怒。
もちろんミスをした私も悪いけれど、いくつもの人格否定の言葉を浴びせかけられました。しかも、事あるごとにこれをネタに不満をぶつけてきよったんやこれがまた。このことをきっかけにその仕掛け人とは完全に縁が切れ、サプライズなんかやるヤツはクソ、って思いを強化していったんですよ。てめぇが喜ばれたいだけやろうが、とね。(サプライズを受けた張本人は、タネがばれても祝ってくれたことがうれしい、と喜んでましたからね)
■どういう気持ちで、サプライズをするんや?ってこと。
ただ、私が言いたいのはサプライズをやること自体がクソ、っていう話ではなくてね。やる上の気持ちがどういう気持ちやったのか、っていうこと。
つまりは、芳しくない出来事があったとしても、その過程で自分が満足できるのか、見返りがなかったとしてもやれるのか。ここが大事なんですよ。
私が思うのは、正直ほとんどの人が「サプライズ」に見返りを求めてるんちゃうの、ってこと。しかも「サプライズ」だから、基本的に相手の意向は無視されているわけでしょう?
自分自身の勝手な思い込みで「私がうれしいことは相手もうれしいに違いない」とかがどうしても混ざりこむ。これが相手にどれだけの負担を強いることか…。喜ばなきゃめんどくさいから喜ぶ、みたいに私はなってしまう。
■「自己判断」なんだから、あくまで「自分」で責任を取る。
これ、仕事でも一緒やと思うんですよね。
良かれと思い込んで頑張って仕事して、それに対する見返りがなかったときにシュンってなったり、怒ったりってしちゃうの、私は違うと思うんですよね。
頼まれてやったならともかく、勝手に自己判断でやったことに対して相手の「好意的な」リアクションを強制するように期待するのって、ダサいし重いです。相手からしたら「知らんがな」なんですよ。
だからこそ、頑張り過ぎんとできることを確実にやって、なおかつ自己判断で実行することは、相手のリアクションも含めてすべて自分で責任を取る。こういう気持ちが大事なんじゃないか、と思うんです。
そうすれば、少なくとも背伸びのし過ぎでしんどくなることもなくなるし、喜んでもらえなくて怒りをぶちまけたり…っていう事態はなくなると思うんですよね。
★自己責任、って言葉に重さを感じてしまった…というあなたへ。