守ってもらう、のは恥なのか。
こんばんは。心理カウンセラーのキタダハルキです。
カウンセリングでよく寄せられるお悩み…というか、対応方法を提案したときの「抵抗」のパターンとしてよくあるのが…
「助けてもらって、申し訳ない…」「自立していないみたいで、恥ずかしい…」
といった流れになること。
確かに、私自身も社会に出るころ…それこそ23歳ぐらいのころは「自立するぞ!独り立ちするぞ!」というように息巻いていたように思います。というか、それが常識として世の中では言われていますし、そこに疑いはありませんでした。
ところが、いわば半年ほどしか持たずに会社を退職し、抑うつ症のオマケまでもらってきて生活の面倒を改めて親に見てもらう日々が訪れた、という現実が私に訪れました。そのときは恥を忍んで生きるのが辛かった、という面もありました。
では、どうやってその状態から抜け出したのか。今日はそんな話をしたいと思います。
目次
- ■独り立ちをしようとすればするほど…
- ■頑張ろうとし過ぎで、結果「厳しく」なり過ぎた。
- ■守られまいとして傷ついて、「結局守られる」方が恥ずかしいんじゃないか。
- ■守られる、という安心感が、立ち上がるエネルギーをくれる。
■独り立ちをしようとすればするほど…
実は、この「恥」の概念は、それこそ起業がどうのこうの、の話になってからも1年以上はありました。絶対成功させて、独立するぞ!みたいな気持ちはむしろ強くなっていたかもしれません。
ところが、そういう意識でいるとうまくいかなかったんだこれが…。
どううまくいかなかったのか、というと、そこそこ働いているはずなのに、気づいたらお金がない、みたいな自転車操業を繰り返していたわけです。もちろん、それも込みで楽しい思い出ではありますが、いま振り返ると不安の連続でしたよね。
■頑張ろうとし過ぎで、結果「厳しく」なり過ぎた。
で、この意識は間接的に悪影響を及ぼしていったんです。
というのは、厳しくなりすぎた、ってこと。自分に…という以上に他人に対してね。 何かに付けてアレはダメこれはダメ、っていうことをしょっちゅう言っていたし、仮に自分が多少苦しかったとしても、弱音を吐かずに、吐かせずに、って形になっていったんですよね。
そうした最終結果が、修復不可能なレベルでの仕事上の大ゲンカ、でした。
もちろん、その原因について今なら許すか、と言われたらそれはNOですけど、そもそも「そういうことが起きるまで締め付けてしまったのは」自分の守られまい、とする強硬な意識にあったんじゃないか、と思うんです。
■守られまいとして傷ついて、「結局守られる」方が恥ずかしいんじゃないか。
その後、いわば一からの出直しのような形になったときに、つまらないプライドは捨てました。守られまい、としてボロボロになって帰ってきて、結局守ってもらう、ということこそが、むしろ恥なんじゃないか。そう思うようになったんです。
その後はもう、困ったことがあれば、少しは自分で考えるけれど、どうにもならんことが分かればちゃんと人に頼ったりしていいね、って思うようになりました。すると、不思議なことにピンチが訪れたって「助けが自然とくる」ようになっていったんですよね。
その集大成が、現在カウンセラーとしての生活が9年目に突入できた、ってことだと思うんです。もし、強硬な姿勢を貫いていたら、おそらく今の自分はないでしょう。
■守られる、という安心感が、立ち上がるエネルギーをくれる。
私は、ボロボロにならんでも、困ったり弱ったり、しんどくなったら守られてもいいと思います。これは男女関係なく。
むしろ、その役割を全うすることで、守られたという安心感が生まれるんです。
そのことが、改めて立ち上がるためのエネルギーをくれて、もっぺん元気出していこか、って気持ちに繋がっていくんです。
だから、しんどかったら一度…といわず、それこそ何度でもいいです。守られて生きてもいい、ってことを頭に置いておいてほしいなと思います。不思議と、守られてることを一度認知すれば、そのことが立ち上がるエネルギーをくれるもんだと私は思います。
★この記事でもその実感についてお話ししています…。