強くあることを、自分に課してきました…が。
こんばんは。心理カウンセラーのキタダハルキです。
強い自分でいなければいけない。ひとりで生きていけなければいけない。
これは、成長していく過程で、誰かに言われるでもなく、当たり前として自分の中にあった私の考え…というか、刷り込まれたアイデア、ですよね。社会生活の中で、特に男はこういうことを言われて育ちますしね。この考え方、特に疑う機会はなかったですね。周囲もそんな考え方で生きていた(はず)と思っているし、なにより「社会人として、男として」の自立、って形で、こういうことを思い描いていたと思います。
ただ、今思うとこの考え方が心を病み始める第一歩になっていたなと思います。散々こういう考え方を擦り込んできたおかげで、表面上だけは強くなった風で、なおかつそのような評価をもらっていた私は、その「強くあること」に大きく価値をおく…というか、依存するようになっていきました。
強くない自分は価値がない。自立できない自分は価値がない。
この最終形が抑うつでしたから、私にとっては「間違い」だったといえると思います。ただ、こういう「強くあれ」という考え方は蔓延していることもあって、なかなか抜いていくのが難しい部分もあります。今日は、私がそういう「強さ信者」を止められたきっかけについてお話ししようかと思います。
目次
■私は、強くもなんともなかった。
実は、きっかけはとある「事件」でした。
私は抑うつ症になる直前に、当時の彼女に突然着拒され、しかもブログにおぞましいほどの悪口を書かれるっていう事件がありました。この出来事のショックは相当なもので、すべてに対してうつろ、だったと思います。
そりゃーもう、恨みましたとも、当時は。なんでそこまで言われなあかんねん!とか思ってましたしね。
ですが、抑うつ症から回復してきてふと、そのときのことを思い返してみたんです。すると…その着拒直前に私が話していた記憶は、基本「仕事がしんどいっていう愚痴」。それを慰めてもらうだけの電話。こんなん、マジ迷惑じゃないですか。その上、女々しく、弱い!
ここで気づいたんですよ。私は強くもなんともなかったのだ、とね。
■情けない姿をさらすまいとする姿が、情けなかった。
おそらくは、当時の彼女はそういう私の「外ヅラだけの薄っぺらい強がり」にほとほと嫌気がさして、傷つけてでも、酷いことだろうが切り離さないとやってられなかったんだろうな、と思います。いまなら思いますよ、本当に申し訳なかった、ってね。
私は、結局のところグチグチいうだけで、どうしてほしいのか…いわば「助けて」って言えなかったんですよね。だから、強がりの重たい男になっていたんだと思うんです。情けない姿をさらすまいとして、結果は最も情けないものになったわけ。
ここまでの傷を負ったのに、強がりを止めるぐらいのプライドなんか、捨てられなくてどうする。そう思ったんですよね。
■自分の中だけで苦しむことが強く、カッコいいと思うのなんて、自分だけ。
今はどうしているかというと…もう、強がらずにしんどいときは素直に助けてもらっています。できないことはできない、って言いますし、感情面のもつれも、素直に口に出すようにしています。
一見、情けない姿のように思うかもしれませんが、実際に私が最近もらう声は、その逆。言いたいコトを素直に表に出せるって、カッコイイし、強いと思うって評価になっています。結局のところ、頼った方が物事もスムーズに流れていきますしね。
だからこそ、強いフリはもう、止めていいと思うんです。自分の中だけで苦しむことがカッコいいと思うのなんて、自分だけ。結果が付いてこないから、カッコ悪いです。それならば、人の力を信頼して、素直に助けを仰いでそれに感謝をしていく方が、よっぽどカッコいいよな、と私は今、思っています。
★人に助けてもらうのが苦手…というあなたへ…。